私の好きな本
【モモ 作/ミヒャエル・エンデ】
地震から10日。あちこちで色んなmovementが起こっている中、私はこの本を読み返した。
以下本文より・・・
『彼は質問をじっくりと考えるのです。そしてこたえるまでもないと思うと、だまっています。でもこたえが必要なときには、どうこたえるべきか、時間をかけて考えます。そしてたいていは二時間も、ときにはまる一日考えてから、やおら返事をします。でもそのときにはもちろんあいては、じぶんがなにをきいたかわすれてしまっていますから、ベッポのことばに首をかしげて、おかしなやつだと思ってしまうのです。
でもモモだけはいつまででもベッポの返事を待ちましたし、彼の言うことが理解できました。こんなに時間がかかるのはけっしてまちがったことを言うまいとしているからだと、知っていたからです。彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。』
『とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは・・・それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。』
『「時間どろぼうが人間から時間をこれ以上ぬすめないようにすることだって、わけもないことでしょう?」
「いや、それはできないのだ。というのはな、人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんじしんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。」
モモは広間を見わたしてから、こうたずねました。
「たくさん時計があるのは、そのためなのね?ぜんぶの人間にひとつずつあるんでしょう?」
「そうじゃないんだよ、モモ。この時計はわたしが趣味であつめただけなのだ。時計と言いうのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目に見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじなようにね。でにかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心を持った人がいるのだ。」』
作者のあとがきより・・・
『「わたしはいまの話を、」とその人は言いました。「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらもそう大きなちがいはありません。」』
1976年に描かれたモモ。《いま》に通ずるものがある。
時が経っても変わらないものもある。それは目には見えないものなのだと、モモから改めて教わった。
人それぞれの考え方や行動。
3・11をうけて、感じ、悩み、考え、心が動かされているこのこと自体が、とてつもなく大きな力で、その力がとても大切なんだと。その感じる心が《いま》、とても大切なんだと。そして、それぞれがそれぞれで良いんだと。
3・20 地球と月が最も近づいた、明け方のextra super moonと呼ばれた月。とてもきれいで、みとれた。そして、何億光年と変わらずにある月や太陽だけが、地球で起きていることを知っているようで、とても恥ずかしくなった。長い長い年月をかけて《いま》があって、そして《いま》もすぐに《過去》になり、すぐまた《未来》がやってくる。
この地球には様々な命が生きているが、どんな《未来》を描くかは人間次第な気がしてならない。